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世界8番目の不思議や人間山脈などのニックネームを持つプロレス界が誇る最強の大巨人、アンドレ・ザ・ジャイアント」。1993年1月27日に、46歳という若さでこの世を去りましたが、マット上での戦いぶりはつい昨日のことのように瞼に焼き付いています。
そして今、映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』が公開されてから、ちょうど25周年を迎えたことに敬意を表して、本映画に出演した最大のスターの1人、フェジック役アンドレ・ザ・ジャイアントの映画撮影の舞台裏などを交えた知られざる11のエピソードを海外サイトから紹介します。
1.初期のアンドレ
アンドレは、先端巨大症肥大、巨人症に苦しみ、成長ホルモンの過剰な量の分泌が身体の内分泌疾患を引き起こしました。特に頭や手足に継続的な成長を促しました。祖父から受け継いだ遺伝性疾患です。14歳の時に家族が生活していた小さな農場を出ました。5人の兄弟の中でも身体は明らかに大きかったです。プロレスラーになって身長が7フィート4インチ(約223センチ)に達するまでの過程で、当時最も大きい時は、身長は6フィート11インチ(約211センチ)あったと見られています。
2.大きな身体でレスリング
フランスのプロレスチャンピオン、フランク・バロアと共にトレーニングを積んだ後、ジャン・フェレの名の下にカナダでレスリングをして、それから日本に渡って、モンスター・ロシモフと名乗りました。1973年にマディソン・スクエア・ガーデンで、WWFデビューを果たしました。そこでアンドレ・ザ・ジャイアントというリング名を発表しました。
3.ザ・ロード・ウォリアーズのアンドレ
1970年代に人気の高さが手伝って、アンドレは年間300日以上の試合を消化しました。当時誰もが認める世界で最も有名なプロのスポーツ選手でした。
4.ジャイアントな食欲
アンドレは、 大食い大酒飲みとしても有名でした。1日にアルコールで摂取するカロリーは、7,000カロリー以上と推定されています。
5.ジャイアントの隠されていた事
アンドレの役柄、フェジックの超人的な強さにも関わらず、隠されていた事は、『プリンセス・ブライド・ストーリー』のいくつかの映画撮影シーンで、実際に俳優を抱え上げることを止めました。バターカップがフェジックの腕に城の窓から飛び降りるシーンでは、アンドレがキャッチする必要が無いようにと、ロビン・ライトにはワイヤーが付けられていました。
6.マンディ・パティンキン=たちが悪い?
映画のリハーサル中、アンドレの厚みのあるフランス訛りの話しぶりをを理解するのは難しかったです。そのことで、マンディ・パティンキンは、数多くの会話シーンで、しばしばアンドレの顔にピンタを喰らわせたと報じています。
7.アンドレの骨が砕ける
アンドレは、映画撮影上の丘の多くを歩き回ることが出来なかったので、周囲を四輪車を借りて運転しました。車をケイリー・エルウィスに試乗して貰おうとキーを預けました。ケイリーが岩の上まで行った時、アンドレの靴が大きすぎて、つま先がペダルの間に挟まってしまい、つま先の一部が砕けてしまいました。その後、代わりに保護靴を履いて残りの撮影を行いました。
8.フェジックネーター?
『プリンセス・ブライド・ストーリー』の著者によると、1970年代に最初の映画を製作しようとしていた時、当時あまり名前の知られていない、アーノルド・シュワルツェネッガーをフェジック役に起用しようとしていました。それから10年経過した後、映画製作に取り掛かろうとした時には、シュワちゃんを起用するのがが難しいほど、超有名な大スターになっていました。
9.映画のひと時
アンドレは、伝えられるところでは、頻繁に映画の上映が行われる際には、『プリンセス・ブライド・ストーリー』のビデオテープを旅行中に常に持ち歩きました。
10.一匹狼のアンドレ
アンドレは、決して結婚せず、ノースカロナイナ州にある200エーカーの大きな牧場で1年のほとんどを過ごしました。
11.我々に伝説を残した
アンドレは、パリのホテルの部屋で明らかに心臓発作で死亡していました。悲しいことに、二週間前に亡くなった父の埋葬後に滞在していた時のことでした。
アンドレ・ザ・ジャイアントの在りし日の雄姿
プリンセス・ブライド・ストーリーの映画クリップより